『「死」とは何か』読書レビュー 121冊目:自己啓発No.29

『「死」とは何か』
著:シェリー・ケーガン


こんにちは、読書好きのmasamariです。

今回は、シェリー・ケーガンさんの『「死」とは何か』をご紹介します。


◾️私が死んだのはいったいいつ?

きちんと機能している人間の身体について考える。
私たちの身体は、現在実にさまざまな機能を実行している。
単に食物を消化したり、身体をあちこちに移動させたり、心臓を拍動させたり、肺を広げたり縮めたりといった機能もある。
それらを「身体(ボディ)機能」、略して「B機能」と呼ぶ。
もちろん、それ以外にももっと高次のさまざまな認知機能があり、それを著者は「P機能」と呼んできた。
おおざっぱに言って、身体の機能が停止したときに人間は死ぬ。
だが、機能と言っても、どの機能のことか?
B機能か、P機能か、はたまたその両方か?

この疑問に対する答えははっきりしない。
なぜなら、普通はむろん、P機能はB機能と同時に停止するからである。
SFの世界を別とすれば、P機能はB機能あってこそのものだ。
だから私たちは普通、どのタイプの機能が死の瞬間を定義するために注目するべき種類の機能かなどと自間する必要はない。
私たちは両方の機能を、ほぼ同時に失うのだ。
それが次の図のような状況で、そこには自分の身体が存在し始めた時点(左端)から存在し終わる時点(右端)までの経過を、おおまかに描いてある。



この身体の履歴はA、B、Cの主要三段階に分けられる。
AとBという最初の二段階では、私の身体は順調に機能している。
少なくとも、B機能(消化、呼吸、動きなど)は完壁に作動している。

とはいえ、当初、A段階ではそれしかできなかった。
これまでP機能と呼んできた、もっと高次の認知プロセスを実行することは不可能だった。
最初のうちは、意思疎通をしたり、理性や創造性を発揮したり、自己意識を持ったりできるほど、脳は発達していないのだ。
だからまだP機能は持っていない。

B段階に入って初めてP機能が作動し始める。
やがて、最後のC段階では、自分の身体はもうP機能もB機能も果たせなくなる。
もう何の機能も果たしていない。
それはただの死体だ。

というわけで、これが通常のケースである。
身体が誕生し、しばらくA段階ではB機能は果たせても、P機能は果たせない。
だが、やがてB機能とP機能の両方が作動する。
それがB段階。
そして、かなり長い時間が過ぎてから、両方とも停止する。
交通事故に遭うかもしれないし、心臓麻脚を起こすかもしれないし、癌で死ぬかもしれない。
正確な原因は何であれ、自分の身体はもうB機能もP機能も果たせない。
もちろん、自分の身体はまだ存在してはいる。
少なくとも、しばらくは。
だが、それは死体である。
それがC段階にあたる。

さて、自分はいつ死んだのか?
B段階の最後、つまり身体が機能しなくなったときというのが自然な答えに思える。
だから、その時点を表すために図には「*」が書き込まれている。
ここで考えているのは通常のケースなので、B機能もP機能も同時に停止するから、自分の死は「*」で示した瞬間に訪れたということで議論の余地はないだろう。
その時点で自分は死ぬのだ。


◾️「身体の死」VS.「認知機能の喪失や脳の死」……人が本当に死ぬのはどっち?

依然としてこう問うことはできる。
どちらの機能の喪失のほうが決定的だったのか?
P機能の喪失か、それともB機能の喪失か?
自分の死の瞬間をはっきりさせるには、どちらのほうが重要なのか?
通常のケースについて考えていても答えは出ない。
なぜなら、B機能とP機能は同時に停止するのだから。
だが、異常なケースを考えたとしたらどうなるだろう?

想像してみよう。
自分が恐ろしい病気にかかり、P機能として一まとめにしている高次の認知プロセスにいずれいっさい携われなくなるとする。
ところが、ここが肝心なのだが、そのときからしばらくの間(数か月、あるいは数年)、自分の身体は相変わらずB機能をいつも通りこなせる。
もちろん、最終的にはB機能も果たせなくなる。
だが今考えているケースでは、P機能がB機能よりもずっと前に停止する。
それを示したのが次の図である。



今回は、自分の身体の履歴を四段階に分けた。
やはりA段階では身体はB機能を果たせるが、P機能はまだ果たせず、B段階では両方の機能を果たすことができ、C段階ではどちらの機能も果たせない。
だが、今度はDという新しい段階がそこに加わった。
これは、P機能は失われたものの、身体は依然としてB機能には従事している期間だ。

このケースではP機能とB機能の喪失はばらばらに起こる。
B機能はD段階の終わりに、P機能はB段階の終わりに、それぞれ停止する。
そこまでははっきりしている。
だが、死はいつ訪れるのか?自分はいつ死ぬのか?

真剣に考えてみる価値のある可能性が二つあるようなので、両方に「*」で印をつけてある。
死は、P機能が停止したときか、B機能が停止したときの、どちらかで訪れる。
そして、なんとも興味深いのだが、どちらのほうが妥当と思えるかは、身体説人格説のどちらを受け容れるか次第かもしれない。

仮に、人格説を受け容れるとしよう。
その場合、誰かが私であるためには、その人は私が持っているのと同じ、少しずつ変化する人格を持っている必要がある。
そして、それはもちろん、私が存在するためには、私の人格も存在していなくてはならないことを意味する。

この見方に従うと、C段階では「自分は存在しない」ことが明白そのものになる。
なにしろ、C段階には私の人格は跡形もないのだから。
自分が自分だと考える人は誰もいない。
自分の記憶、信念、欲望、目標を持っている人は誰もいない。
それならば明らかに、人格説の観点に立てば私はC段階では存在しない。

もちろん、おおざっぱに言えば、自分はただの死体だと言える。
だが、これは誤解を招きかねない。
自分は死体として相変わらず存在していると示唆することになるからだ。
ところが、厳密に言うと、それは断じて真実ではない。
死体は自分のただの名残にすぎないと言うほうが正確だろう。
C段階では、自分はもう存在しない。

だが、D段階はどうか?
ここでは、少なくとも自分の身体は相変わらず機能している。
いや、より正確に言うなら、B機能を実行している。
それにもかかわらず、自分の人格は消滅してしまった。
私の信念や記憶、欲望、恐れ、野心などに関しては、何も存在していない。
だが人格説によれば、特定の時点で私が存在するためには、その時点で自分の人格を有するものが何か存在していなければならないことになる。
それなのにD段階には、そんなものは存在しない。
だから自分はD段階でも存在しない。

ようするに、自分の人格はB段階の最後に消滅してしまったのだから、人格説を受け容れる人は、私もB段階の最後に死んだと言わざるをえないようだ。
自分の死の瞬間は「*1」の時点であり、それは自分の身体がP機能を果たす能力を失った時だ。
これは明白なことだと言える。


◾️おわりに

「死」とは何かなんて考える人はほとんどいないでしょう。
誰しも死にたくないと考えているでしょうからね。
ただ、やはりみんないつかは死ぬのですから、どうせなら「死」について考えてみるのも面白いかもしれません。
本書では、「死」についての様々な考え方が紹介されています。
気になる方は、是非読んでみてください。

シェリー・ケーガン(著)

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